「1万エージェント、88時間、500万メッセージ」——OpenAIの数学的偉業に、なぜ盗用疑惑がついて回るのか
9月8日、OpenAIが「未公開の内部モデルが、Navier-Stokes方程式(流体の運動を記述する方程式)に関する、ミレニアム懸賞問題の一つを解決した」と発表した。しかしその数時間後、ニューヨーク大学の数学者トリスタン・バックマスター氏が、この成果が自分の未公開の研究を、無断で参照した可能性があると告発した。エンジニアとして、この技術的な成果の中身と、その裏で起きた功績を巡る対立を、丁寧に見ていきたい。
「約1万エージェント、88時間」という、前回とは異なるスケール
まず技術的な内容を確認したい。以前取り上げたAstraによる数学証明や、Claudeによるフェルマーの最終定理の形式化とは、また異なるアプローチが取られている。OpenAIの説明によれば、GPT-6 Astraよりもさらに高性能とされる、未公開の内部モデルが、およそ1万のエージェントを並列で連携させ、88時間にわたって作業を続けた結果、強制3次元Navier-Stokes方程式における「有限時間爆発(finite-time blowup、解が有限の時間内に発散してしまう現象)」の証明を導き出したという。
この過程で、エージェント群はおよそ500万件のメッセージを交換し、およそ3,000億の出力トークンを消費したとされる。OpenAI自身は、この計算コストを「数百万ドル」と説明しているが、公開されているトークン価格をもとにした外部の試算では、1,500万〜2,200万ドル程度という、より具体的な金額が示されている。
「未解決」と「解決」の間にある、重要な技術的な区別
この成果の内容を正確に理解する上で、決定的に重要な区別がある。100万ドルの懸賞金がかかったミレニアム問題は、外力が働かない「強制なし(unforced)」のNavier-Stokes方程式を対象としている。しかしOpenAIが今回証明したのは、外部からの強制力が加わった「強制あり(forced)」のバージョンであり、これは関連はしているものの、性質の異なる、別の問題だ。
Clay数学研究所は、この結果が実際に懸賞問題の基準を満たすかどうかについて、まだ判断を示していない。仮にこの証明が最終的に認められたとしても、査読付き論文としての発表と、その後2年間にわたる数学コミュニティによる検証を経なければ、懸賞金は支払われない。つまり、たとえ全てが正しかったとしても、この成果が「公式に認定される」までには、まだ長い時間がかかることになる。フィールズ賞受賞者のテレンス・タオ氏は、この基礎となったアプローチを「注目すべき成果」と評価しつつも、証明全体への正式な支持は、まだ表明していない。
バックマスター氏が語る、「なぜキャリアを台無しにするのか」
この技術的な成果以上に、業界内で大きな話題となっているのが、功績を巡る対立だ。バックマスター氏は、8月22日の時点で、自身とAnthropicの研究者レヴェント・アルペゲ氏が、関連する爆発現象の証明に、既に到達していたと主張している。
バックマスター氏によれば、9月3日、両社の研究に関する噂が広まる中、OpenAI側の研究者に連絡を取ったところ、当初は友好的な返信があり、OpenAIの計算資源の提供まで申し出があったという。しかし9月6日の通話で、OpenAIの研究者セバスチャン・ビュベック氏が、社内のモデルが既に、ほぼ100ページに及ぶ、強制Navier-Stokesの証明を完成させていたことを明かし、バックマスター氏に対して、Anthropicに所属する共著者アルペゲ氏の名前を、共同発表から外すよう求めたとされる。バックマスター氏がこれを拒否すると、「なぜ自分のキャリアを台無しにするのか」と言われたと、同氏は主張している。
OpenAI側の説明と、時系列の食い違い
OpenAI側の研究者ビュベック氏は、この取り組みが始まった経緯について、異なる説明をしている。同氏によれば、9月1日、SNS上で「競合するラボが、2つのミレニアム問題を解いた」という噂が広まったことを受けて、OpenAIはこの取り組みを開始したという。まず、より単純な「非強制オイラー方程式の正則性」という、関連する別の問題に、1,000体規模のエージェント群が50時間取り組み、その後Navier-Stokesへと、1万体規模へとリソースを拡大したとされる。
この時系列を素直に読めば、OpenAIの取り組み開始(9月1日)は、バックマスター氏らが既に結果に到達していたとされる時期(8月22日)よりも後になる。しかし、OpenAI側がその後の対話の中で、既に完成間近の証明を持っていたことを明かし、共著者の除外を求めたという主張が事実であれば、独自に到達した成果というより、他者の研究の存在を認識した上での行動だった可能性が浮上する。この食い違いは、現時点では両者の主張が対立したままであり、外部からの検証が待たれる状況にある。
エンジニアとして見ておきたいこと
今回の一件が示しているのは、AIによる数学研究の高速化が、研究成果の「速さ」だけでなく、「誰が、いつ、何を、どうやって知ったか」という、人間同士の研究コミュニティにおける、信頼と功績の枠組みそのものを、大きく揺さぶり始めているという現実だ。1万体のエージェントが88時間で導き出す成果と、人間の研究者が個人的に積み重ねてきた、地道な研究との間の緊張関係は、今後、AIによる研究加速が一般化していく中で、繰り返し表面化していく問題になりそうだ。
166ページに及ぶ論文と、Leanによる形式検証コードは、既に外部レビューのために公開されている。今後、この証明の技術的な正しさと、功績を巡る両者の主張の真偽が、それぞれどう検証されていくのか、注視していく必要があるだろう。