「世界のGDPの4分の1」を語る根拠——Anthropicが投資家に示す市場規模という、一つの哲学的主張
Anthropicが、IPO(新規株式公開)に向けた投資家向け説明の中で、自社の「総アドレサブル市場(TAM、Total Addressable Market)」が30兆ドルを超えると説明する見通しであることが、複数の報道により明らかになった。これは、6月に上場したSpaceXが投資家に示した28.5兆ドルという数字を上回る、IPO史上最大級のTAM claimになるという。AI研究者出身のジャーナリストとして、この巨大な数字がどのような論理で導かれ、何を意味しているのかを、丁寧に見ていきたい。
TAMという指標が、そもそも何を測るものか
まず、TAMという指標そのものの性質を確認しておきたい。TAMとは、ある製品やサービスが、理論上100%の市場シェアを獲得した場合に得られるであろう、年間の潜在収益を示す指標だ。これは、企業の現在の売上を示すものではなく、あくまで「どれだけ大きな機会が眼前に広がっているか」を投資家に印象づけるための、将来性を語る手段として使われる。
Anthropicの手法は、この算出方法において特徴的だ。報道によれば、同社は、AIモデルによって理論上完了させることができる、あらゆる作業の範囲全体を基準に、このTAMを算出しているという。これは、特定の業界やソフトウェアカテゴリの市場規模を積み上げるという、従来型のTAM算出方法とは、性質が大きく異なる。むしろ「人間の認知労働全体」を、潜在的な市場として捉えるという、より野心的な発想に基づいている。
「S&P1500の12倍」という、規模感の検証
この数字の大きさを、具体的な比較対象を通じて検証してみたい。The Wall Street Journalが引用したFactSetのデータによれば、S&P1500指数に含まれる191のテクノロジー企業の合計売上高は、昨年1年間でおよそ2.4兆ドルだった。Anthropicが主張する30兆ドルという数字は、この米国テクノロジーセクター全体の売上高の、実に12倍を超える規模になる。
さらに大きな文脈で見ると、この数字は中国のGDP全体を上回り、米国のGDPにほぼ匹敵し、世界全体のGDP(およそ120兆ドル)のおよそ4分の1に相当するという。単一の企業が、これほどの規模の市場機会を主張することは、企業のIPO史において、前例のない水準だと言える。
実際の収益との、大きな「距離」
一方で、この巨大なTAMと、Anthropic自身の実際の財務実績との間には、大きな距離がある。同社の第2四半期の売上高は115億ドルを超え、前年同期比で14.6倍という驚異的な伸びを記録したとされる。年間換算収益(ARR)は、7月時点で650億ドルに達したという。
同社が投資家に示している2028年の収益予測は、およそ1,900億〜2,000億ドルだ。仮にこの予測の上限が実現したとしても、それは同社が主張する30兆ドルというTAMの、わずか1%にも満たない水準にとどまる。つまり、この巨大なTAMという数字は、Anthropicが近い将来に、その大部分を獲得することを示唆するものではなく、あくまで「理論上の上限」を示す、抽象的な指標に過ぎないということになる。
専門家からの懐疑的な視線
この種の巨大なTAM claimに対しては、金融の専門家から、以前より懐疑的な見方が示されてきた。ニューヨーク大学スターン校のファイナンス教授アスワス・ダモダラン氏は、SpaceXが示した、今回のAnthropicの数字よりもやや小さい28.5兆ドルというTAM claimについて、「AI時代のTAM算出は、もっともらしさの限界に達しており、それを超えて押し広げられている」と評していた。
この批評は、今回のAnthropicの30兆ドルという、さらに大きな数字にも、そのまま当てはまるものだろう。TAMという指標は、本質的にIPOのピッチデックにおける、投資家を説得するための道具であり、その算出方法には、企業ごとに大きな裁量の余地が存在する。
「数字の主張」が持つ、実務的な機能
この数字の妥当性を巡る議論とは別に、TAMという主張そのものが果たしている、実務的な役割にも目を向けたい。この種の巨大なTAMは、単に投資家を惹きつけるためだけの数字ではなく、企業の評価額を正当化し、それに見合うインフラ投資の規模を正当化し、製品開発の優先順位を導き、競合他社との競争のフレームワークを設定するという、複数の機能を同時に果たしている。
Reutersの分析が指摘するように、30兆ドルという数字は、単なる将来予測というより、「Anthropicが、自社をどのようなビジネスだと考えているか」についての、一種の意思表明だと理解する方が適切かもしれない。それは、ソフトウェアの提供という枠組みを超えて、人間の労働そのものを対象とする事業だという、野心的な自己認識の表明だ。
研究者として見ておきたいこと
このTAM claimを巡る議論は、AI企業の評価額が、どのような論理で正当化されているのかという、より大きな問いにもつながっている。実際の収益や利益といった、検証可能な指標に基づく評価と、「理論上の潜在市場」という、極めて解釈の幅が広い指標に基づく評価との間で、投資家がどうバランスを取っていくのかは、今後のAI企業のIPOラッシュにおいて、繰り返し問われることになるテーマだろう。
Anthropicの目論見書(S-1)が、数週間以内に正式に公開される見通しだとされる中、この30兆ドルという数字が、実際の開示文書の中でどのような形で、どこまでの説明とともに提示されるのか。そして、市場がこの主張を、どこまで真剣に受け止めるのか。今後の展開を注視していきたい。